No.372
4月 卯月

 
 あっという間に、春、四月!

 新しい生活にスタートする人
 新人研修に緊張の日々の方
 環境は変わらなくて、あまり変わりばえしないけど、でも、やはり春だし、希望を持ちたい
と前を向いたり。
 この落ち込みから、どう抜け出そうかと、日射しのまぶしさを、もっとまぶしく感じながら
の方は、退院はしたものの、術後感染で傷口がまだ閉じない、今の私と同じ気持ちかも…
 お元気でしょうか。




 幸せなことがありました、
 先月3月23日(土)、おかげさまで、長らく連載執筆の日経新聞コラムを、
無事、卒業することが出来ました、
 27年間にわたります。
 その間、コラムのタイトルは、少しづつ変わってはいるものの、おかげさまで、
もう、語り切れないほどたくさんのことに気付かされ、教わり、学ぶことが出来、
感謝しかありません。
 長きにわたりおつき合い賜り、誠にありがとうございました。




 コラムのスタートは、1997年4月、夕刊での連載で、「マナーいただけません」でした。
 食事のマナーを、型通りにナイフがどうの、ではなく、誰もがやってしまいそうなことを
新しい視点で、と云う、目的が実にはっきりした執筆依頼で、自由に書かせて頂きました。

 次が、その第一回目の原稿です。

     

       「マナーいただけません」
         ~ キョロキョロはだめ ~

        レストランでの心構えのイロハのイは、なんといっても
       ‘視線‘のおきどころ。
        二人向かい合って食べているはずなのに、隣席の女性が気になって
       チラチラ眺めまわす。「あら、あの人、私の欲しいフェンディを着てるわ」
       と無遠慮な視線を送る。
        かと思えば「ん?あれはタレントの〇〇じゃないの?」と身を乗り出し、
       その歩行に合わせて首をジーッとL字型に回転させる。
       後ろのテーブルで水でもこぼしたらしいざわめきに
       「なに、なに?」とあからさまに振り向く…
       などなど、はっきり云って品がない。はしの上げ下ろしと同じくらい、
       その人の品位が見えるところなのだ。
        他のテーブルに無関心を装うことがもっとも礼にかなっている。
       人間は、五感の中の視覚を多用して
       コミュニケーションをとっている動物なので、見ないでいることは苦しいが、
       たとえ我があこがれの「キムタク」が食事をしていようとも、
       ぐっと見たい気持ちを抑えてやせ我慢。
        なぜならお互いにここは、私的な時間と空間を楽しむ場所であるからだ。
        大物はうろちょろキョロキョロしないこと。これ、鉄則なり。
                                   
                               (今井登茂子)
                              1997年4月19日

    


 「スープ皿、手前に倒す?」
 「食事中にするゲップ」
 「粋なマドラー扱いは」
などなど、この連載は1999年7月いっぱいまで続き、
今、客観視してみて、常に、この短い文の中で「何故なのか」について、
言及している自分を、再発見しています。
 何故そうした方がいいのか、の理由を、追求し、学んだなァ、と。
 そして、この姿勢・生き方は、今も変わっていない自分も。




 これまで、多くの人材教育・研修に携わってきましたが、今でも忘れられない質問が
あります。
 さる宝飾店の新人研修で、一人の男性が云いました。
 「嬉しくもないのに、どうして笑顔でいなければいけないのですか?」

 本当にね、
 昨日まで学生生活の人に、頭ごなしに、笑顔が大切と説いても、そう考えていても
仕方ありません。
 で、こう答えました、
 「そうですね、楽しかったり、喜んだりする時、私たちは自然に笑顔になりますよね。
 これを‘生理的笑顔‘と呼びます。
 これに対して、一人の社会人として責任をもって他人と相対する時は、‘社会的笑顔‘を
獲得しましょう」
 と、ここまで説明するだけでその男性は、それこそ納得の笑顔になってくれました。

 そう、頭ごなし、口角を上げろなどと押し付けるのではなく、必要な理由を整理しことば化
することで、理解は進むものです。
 店に足を運んで下さったお客さまへ「お越し下さってありがとうございます」の笑顔は、
ごく自然に生れるようになりました。


 こんな風に、一つの質問は、おかげさまで私自身の大切な学びとなって
現在に到っています。

 何故、私たち日本人は頭を下げて挨拶するのか。
 何故、別の国の人は握手なのか、ハグなのか…
 など、歴史をさかのぼって、民俗学の域で教わることも多く、こうした学びの土台がなけ
れば、日経新聞の連載にもつながらなかったかと、感慨深いものがあります。




 そして今回、「マナーのツボ」で
「ことば遣いは心遣い」を書き上げることが出来、感謝しかありません。

 特に、昨今のコミュニケーションのとり方の激変は、今さら私が強調しなくても、皆さまも
お感じになっていることでしょう。

 だから尚のこと、人間の人間らしさに具体的に気付き、歩いて行けたらいいですね。

 拙文ではありますが、ここに心こめて、日本経済新聞「マナーのツボ」
最後のメッセージを、受け取って頂けましたら幸せです。


   

     「マナーのツボ」
      ~ 自分が自分が、と云いたくなる
                相手への心遣いが先 ~

      終戦直前、結核で母を亡くしました。6歳の冬のことです。
    父は出征中で頼る人もなく、母が血を吐くと幼い私が洗面器で受けていました。
    ベッドの横に立つ私の目をじっと見つめ、か細い声で「ともこ」とささやき
    「おせんべい」と私の口に何かを入れるしぐさが最後でした。
     この母のメッセージを鮮明に思い出したのは、30代に入り結婚した時です。
    夫はいつも「今日はどうだった?」と笑顔で寄り添い問いかけてくれて、
    「うんそうだね」と自分のことより、まず私の話を聞いてくれる。
    そして信頼感が生まれうれしくなる。ハッとしました。
    「私が欲しかったのは、このひと言だったんだ」 と気づきました。
     6歳のあの日からずっと家族というぬくもりが皆無の中、
    愛されたくて自分を分かってもらいたくて、自分が自分がと意見ばかりで
    突っ張れば突っ張るほど友だちは遠のき、自分が誰だか分からなくなる。
    もがき苦しんできた答えが夫のひと言にありました。
     母も「苦しい、痛い、夫に逢いたい」という思いがきりがないほどあるはずですが、
    最後の息を使ってまで私の名を呼び手を差し伸べてくれました。
    胸が震え、私も他者にそうありたいと強く思いました。
    まず相手への心遣いが先なのだと。
     「ことば遣いは心遣い」は私のコミュニケーションの原点になっています。

                        (コミュニケーション塾主宰
                                  今井登茂子)
                         2024年 3月 23日

   



                                            2024年 4月
                                            今井登茂子
                                          
                                                    
   




                                       
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