No.327


2019年10月 神無月

 お元気ですか!
 異常気象ですね。

 とうとう我家のミョウガは、たったの4粒しか採れませんでした。
 それも固くて小さくて……
 毎年、ザル一杯に収穫したのが嘘みたい。
 おまけに、葉の背丈も、いつもの半分以下です。

 買い物に行っても、
 まァなんと野菜の高価なこと!
 トマトなんて、眺めるばかり。
 いつになくナスが安かったので、うれしくて買って帰ったら、その皮の固さにびっくりでした。




 「地球は急速に、壊れはじめている」

 これまでも感じなかったわけではありませんが、
 このところ、このことを、直接肌で感じることが多くなりました。
 それは、きっと、多くの人が感じてはいるのでしょう。
 気候の面で、生きものの生存をめぐる問題で、植物のことで、そして、そこまで地球を
追いつめた人類、私たちの暮し方、果ては、今なにかというと話題になる人と人との
コミュニケーションのとり方の問題で……などなどetc 




 先日、秋のお祭りで、今や世界的に有名になった渋谷のスクランブル交差点が通行止
になり、お神輿が舞いました。
 タクシー運転手さんは、「道玄坂が通行止めになると、ホント困るんだよね」と文句云って
ましたが、いいじゃないですか、一年に一遍ぐらい、もともとこの「渋谷村」は、谷底で、
だから、日本で一番古い地下鉄・銀座線が今も渋谷駅の3階から発着しているのは、他の
駅との高低差を考えると、渋谷は低い所にあるので、なるべく高低差をなくして線路をひく
と、そうせざるを得なかった、などなど。
 云いだせば切りがないくらい、その「土地」には、その土地特有の特長をもった歴史が
ある。

 この祭りの日、各町内会の神輿が、「うれしいんだろうねェ、自分たちの広場(スクランブ
ル交差点)でさァ、舞い上がってたよ」
と、近所の小父さんが、しみじみ笑顔で語っていて、同感でした。そして、追いつめられた
今の私達の、やり場のない哀しみを感じていたのでした。


 まわりを見上げれば
「こんなに高層ビルばかり建ててどうするの?」と、
それはもう、この辺に住む人は、みんな顔を合わせれば同じセリフ、うんざり顔。

 そして、これが、人間、私たち人間を幸せにする輝かしい未来の姿だなんて、全く思って
いません。思えません。
 「あそこの公園も全部潰しちゃって、ビルだよ」
 「桜並木は全部切っちゃうしさ」
 「エ―ッ、本当に?」
そんな会話ばかりです。




 春の小川は さらさら行くよ
 きしのすみれや れんげの花に
 姿やさしく 色うつくしく
 さいているねと ささやきながら

 この、誰もが知っている歌のルーツが、ここ渋谷だと知って、歩いてみたことがあります。
 歌の「ふるさと」は丁度今の原宿の奥の方で、宇田川の支流河骨(こうぼね)川だと云うの
ですが、どこにもそのような川は現存しませんでした。
 作詞者・高野辰之さんが、明治42年頃から現在の渋谷区代々木3-3-2に住んでい
て、娘さんを連れては広い野原を静かに流れるこの川辺を、よく散歩しながら、作ったもの
だそうです。
 それは、大正元年頃の情景で
 其の後、56年前の東京オリンピックを機に小川はフタされ、暗渠となり、今や、渋谷の
センター街の下を走る下水道になってしまった、と云うことでした。

 …… じゃ、スクランブル交差点辺りも、超高層ビルのまわりの地下にも、
「春の小川」は、都会の汚物を集中して抱え、生きているのか、と、なんとも、いたたまれな
い気持になったものです。




 宮尾幹成さんという新聞記者の方が、「霞町物語」(浅田次郎著)という本を
「記者の一冊」として推薦。
 「東京の町なかを網の目のように都電が走っていた時代のことは、もう余り知る人が
ない」
 との一文に、胸を突かれる思い……

 ハイ、私知ってます。覚えてます。
 青梅街道の傍が実家で、幼い頃は、この青梅街道を走る電車市電は、チンチン電車
って呼んでいて、私達庶民の足でした。
 電車の警笛のように鋭くない、おだやかな「チンチン!」と云う、なにかを鳴らす音が合図
で動いていました。
 車体の一番前には、車体の幅いっぱいの大きな網がくっついていたことなんて、それこそ
覚えている人は少ないのではないかナ。
 もし、歩いている人間が横切ったり、飛び出しても、この網にひっかかって、すくいあげ、
轢き殺さないための、アミ、です。
 なんとも穏やかで、笑っちゃうほどレトロでしょ。

 そうそう、
 大学時代、キューレター(学芸員)の資格をとるための課外授業で根津美術館に行った
とき、
 六本木から青山に向っての市電に乗り、並木道がキレイだったのを、何故か、とても鮮
かに覚えています。
 とにかく、56年前の、オリンピックまでは、
 東京の空は、広かったし、ゆったり時間が流れ、富士山もいろいろな所から眺めることが
できました。

 でも、街が「発展」するって、人間が「幸せ」になるって、
 少しでも経済効果が高く、
 少しでも、他人より、早く、スピーディに……と、必死になることだけではない、と、今、
私たちは気付いて来ているのではありませんか?

 あのオリンピックを境に、高度成長期の路線を走りに走ってきた私たち。
 新幹線も、ハイウェイも知らなかったのに。
 黒い固定電話が各家にまだ普及してなくて、大家さんが「電話ですよ」と、ゲタつっかけ
て呼びにきた時代がついそこにあったなんて、このケータイ世代には想像もつかない。

 TBSに入社した頃、TV画面は全部白黒だったなんて、、信じられます?
 ラジオ取材にかついで出る録音機は、デンスケと呼ばれ(理由はわかりません)、肩から
提げると重くて、直径15センチ位のオープンリールに録音するのですが、電源は手動。
まるでかき氷をくるくるまわすように、せっせとまわさないと、せっかくの話も録音できず、
何度失敗したかわかりません。

 ついでに云わせてもらえば、デジタルの今のように、テープを編集する技術が、簡単では
ないので、ハサミで切ってつなぐので、絶対読むミスは許されない。
と、緊張の連続の中で育ちました。



 と、ついこの間のことが、忘れられて、あっという間に遠い過去。
 思い出すよすがなんて、どこにもない。
 進歩もしたけど、その超スピードの中で失ってしまったものも、モーレツあるんじゃないで
しょうか。

 因みに、この東京と云う一大カオスの中では、先の霞町というなつかしい地名すらはぎと
られ、今は、西麻布何丁目と云った具合。
 銀座四丁目は、「尾張町の交差点」であることを覚えている人も、あまりいないでしょうね。
 でも、私より上の世代では、頑なに旧名の「尾張町の交差点」と云い、江戸っ子の誇りを
守っている人も、まだまわりにはいます。
 その「心意気」、私、買います。
 丸ごと、買います。
 「名前」は、物でも、人でも、土地でも、その主体のアイデンティティそのものだと考えるか
らです。
 そして、もう一つは、「ふるさと」を愛しているから。
 私のふるさと「東京」を愛しているから。
 人間としてこの「地球」を愛しているから。
 だから、これ以上壊したくありません。




 なにかの本に書いてありました。
 「あまりにも急激な変化」を、「破壊」と云う、と。
 本当にそう!




 折しも、23日に、地球温暖化対策を話し合う、国連の気候行動サミットがありました。
 それを受けて、今話題になっている 学生で環境活動家・スウェーデンの16才の
グレタ・トゥンベリさんが、痛烈な演説をしたと報じられました。
 グレタさんは、世界のリーダー達を前に、怒りに震えてこう云っています

「全くおかしい。私はここではなく、学校に戻るべきです」
「人々が苦しみ、死んでいる。生態系全体が破壊され、絶滅の始まりに直面している。
 それなのに、あなたたちは、お金や永遠の経済成長という信じられない話ばかり。
 よくもそんなことができますね」
「(気候変動が30年以上にわたり科学的事実としてあるのに)あなたたちは目を背け、
 目に見える何の対策も解決策もなく、よくもここまで来られたものですね」

 4分間の、この大人を糾弾した演説に会場は大きな拍手につつまれたものの、当人に
笑顔はありませんでした。
…………返す言葉も、ナイ。

           
 
                       






 「悲しみを力に~ダウン症の書家、心を照らす贈りもの~」
 (PHP・金澤翔子・書 金澤泰子・文)
 この一冊は、私の心を照らしてくれました。

 ダウン症で誕生した翔子さんは、母親との強い絆のなかで書家としてその名を知られる
ようになりましたが、14才の時、父親を亡くします。
 ある時、ニューヨークのロックフェラービルでの取材で、
「翔子さんが、今までのぼった一番高い所はどこ?」
ろのインタビューに、彼女はこう即答しています。
「お父様の 肩車」

 高い、とてつもなく高いロックフェラービルの最上階に立ち、
 もし、私たちが、そう聞かれたなら、なんて答えるでしょうか。
 何メートルという、物質的な高さとか、どれほどお金をかけた有名なタワーだとか、と、
そうした目に見える、この世的なものに気持がどっぷり漬かってしまっていて、ろくな答えに
ならない気がするのです、少なくとも私は。

 この本を書いた母親の泰子さんは、こう記しています。
 「翔子の父親は、彼女を深く愛していた。
  翔子が誕生してしばらく、私はダウン症のことを隠していたけど、父親は、
  “千人に一人授かる大切な子なのだよ”と、むしろ翔子を誇りに思い、育てていた。
  私のように悲嘆に暮れたりしていなかった。
  お祭りのときなども、翔子を高々と抱きあげ、肩車をして遊んでいた」と。

 だから翔子さんは、このビルよりもなお父親の肩車の方が高かった、と即答できたので
しょう。




 私たちにとって、「倖せ」とは、どう生きることなのか。
 この季節の変わり目に、しみじみ、深く考えさせられている日々です。

 みなさんは、最近、流れる雲を追いかけたことがありますか。
 そよ風に、耳をすましたことが ありますか。
 壮大な夕陽が沈む所は?
 それを実現できる場所が、まわりにありますか?

 私も、少しでも深く呼吸し、
 自分も、まわりも笑顔でいられる場所を作りたいと、
 四角に区切られた空の下を、きょうもゆっくり歩いていきます。
 そして、みんなの「笑顔」を祈っております。




                                         2019年 10月 1日
                                            
                                            今井登茂子
                                                                                               

   ※いつもご覧頂いてありがとうございます。
     せっかく開いて頂きましたのにごめんなさい。
     少しお待たせしてしまいますが、11月中には更新致しますので、
     よろしくお願い致します。

     
 
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